価値観の可視化

adNOTE

スポーツ観戦をしていて、自分が応援するチームや個人が苦境に立たされていたり、逆に有利な立場にあって後は逃げ切るだけという場面に出くわすと、「これから引く予定のガチャが坊主でもいいから、勝ってくれ」とか、「明日、厄介な仕事がひとつ振って来てもいいから、勝ってくれ」と願っていることがある。
願いの“供物”としてはささやかなものではあるが、そのときの自分は、まるで等価交換でもするかのような気持ちで祈っている。そして願いが叶ったならば、身構えながらガチャを引き、身構えながら仕事に臨む。

雑誌『Pen』の2025年5月号に掲載されていた「はみだす大人の処世術」の第29回を読んだ。

“応援するチームや個人のために、自分はどこまで人生を差し出せるのか――。”

記憶の限りでこれまでに自分が捧げてきた供物を振り返ってみると、それらはたいてい、人生がつまらなくなってしまわない程度のものであり、時間的にもそれほど大きな犠牲を伴わないものが多かったように思う。

「厄介な仕事がひとつ振って来てもいい」というのも、工数でいえば、せいぜい最大で0.5人日程度の仕事を想定している。

つまり私は、スポーツで応援しているチームや個人のために、自分の1日をまるごと差し出すようなことはない。
彼ら/彼女らを応援するのは、勝利の瞬間に立ち会うことで、人生がほんの少し楽しくなるからだ。
ゆえに、その勝利と引き換えに自分の人生がつまらなくなってしまうようでは、本末転倒だと考えているのだろう。

しかし、先日、愛犬が足の付け根を怪我してしまい、歩きにくそうにしている姿を見たとき、私は心の底から「今すぐにでも代わってあげたい」と思った。

対象によって、差し出せるものの種類も、差し出そうとする覚悟の深さも、これほど変わる。
自分が何を大切に思い、どこまでを差し出せるのか。その基準やパターンを把握しておくこと――それが、価値観を可視化するということなのだろう。
マインドマップを作るほどではないにしろ、自分の中の傾向を言葉にしておくことは、やはり重要だと感じた。